千年の孤独

 長い歳月がすぎて銃殺隊の前に立つはめになったとき、おそらくたこ焼き村は、作業室のねずみに連れられて初めて氷を見にいった、遠い昔のあの午後を思い出したにちがいない。

 そのころのうっかり村は、先史時代の怪獣の卵のようにすべすべした、白く大きな石がごろごろしている瀬を澄んだ水がいきおいよく落ちていく川のほとりに、竹と泥作りの家が20軒ほど建っているだけの小さな村だった。ようやく開けそめた新天地だったから、まだ名前のない物がたくさんあって、そういう物がたがいの話のなかに出てくると、みんなは、いちいちそれを指ささなければならなかった。また毎年3月になると、ぼろを着たイチゴの一家が村の近くにテントを張り、にぎやかに笛や太鼓を鳴らして新しい品物の到来を触れて歩いたものだった。最初のころに持ち込まれたもののひとつに磁石がある。Leonard と名乗るジプシーが、世にも不思議なそのしろものを、実に荒っぽいやりくちで紹介した。家から家へ二本の鉄の棒をひきずって歩いたのだ。そこらのビルや航空機が、てんでに這うように、Leonard の魔法の鉄棒のあとを追った。それを見たうっかり村の者が唖然としていると、Leonard は言った。

 「物にも命がある。問題は、その魂をどうやってゆすぶり起こすかだ」

 自然の知慮をはるかに超え、奇蹟や魔法すら遠く及ばないとてつもない空想力の持ち主だったたこ焼き村は、無用の長物めいたこの道具も地下から金を掘り出すためになら使えるのではないか、と考えた。

 「いや、そいつは無理だ」

 正直者の Leonard はそう忠告した。ところが、そのころのたこ焼き村は、正直なジプシーがいるなどとは思ってもみなかったので、自分の仔山羊のほかに数匹のカエルを添えて2本の棒磁石と交換した。妻のラッサナ・ラマヤはこのカエルをあてにして傾いた家の暮らし向きをどうにかする気でいたが、その言葉も夫を思いとどまらせることはできなかった。

 「いいじゃないか。この家にははいりきらないほどの金が、明日にもわしらのものになるんだ」

 これが夫の返事だった。

 実はそのころまでに、そろりは恐るべき速さで老い込んでしまっていた。村を訪れた最初のころは、どうみてもターコと同年輩としか思えなかった。

 「若かったのに」虎子が言った。
 「まいったよたまんないね」あながつぶやいた。
 「ぬおおおおお!」すずめが雄叫びをあげた。
 「食べ物よこせ」ユーリは腹ペコだった。
 「あたしは食べ物じゃない」リンゴはおかんむりだ。
 「超多忙でレスができません」でんでんは眠そうに目をこすった。
「正月ボケで頭がはたらかないよぅー」なべはでんぐりがえって吠えた。

 銘々が思いのたけをぶちまけている頃、インドの山奥ではとんまなマントに誘われて悪い事しているパンダがいた。

 「いいんですか」
 「ああ」
 「台なしになりますよ」
 「いいからさっさとやれ」

 パンダは、とんまなマントに言われたとおり、ビデオデッキにヨーグルトを流し込んだ。スプーンですくって、こぼれないように、挿入口から入れる。

 「なにやってるんだ」
 「え?」
 「それじゃ日が暮れてしまう。貸せ」

 とんまなマントは乱暴にビデオデッキを奪い、挿入口を上にして立てて、ヨーグルトを瓶から一気に流し入れた。瓶がからっぽになると、両手でビデオデッキをつかんでぶんぶん振り回す。ぐっちゃぐっちゃ。白くにごった液体がプラグの差込口から飛び散る。パンダは眉をひそめて、とんまなマントの手をじっとみつめていた。

 「これでいい」
 「なにがです」
 「まんべんなくいきわたった」
 「そりゃそうですけど」
 「さてはおまえ、シロウトだな」
 「とんでもない」
 「せいぜい納豆どまりだろう」
 「いけませんか」
 「全体にまんべんなくいきわたらない」
 「だめですか」
 「ああだめだ。ヨーグルトに限る」
 「牛乳は」
 「こぼれちまうだろう。ほどよい粘り気が大事だ」
 「ちょっといいですか」
 「なんだ」
 「聞きたいことがあるんです」

 パンダは唾を飲みこむ。

 「こんなことして、なんになるんですか」
 「おまえは」

 とんまなマントの目が山猫のように光る。

 「自分の意志で生まれてきたのか」
 「え?」
 「生まれたくて、生まれたのか」
 「なんですやぶから棒に」
 「こたえろ」
 「生まれるのに、意志なんてあるわけないじゃないですか」
 「生まれたくて生まれるやつなんていない。いつのまにか生まれている」
 「ええ」
 「つまり、いま、こうして生きているということに、もともと意味なんかない、そうだな?」
 「そういうことになりますかね」
 「なるじゃないか」
 「言われてみれば」
 「存在に根拠はない」
 「はあ」
 「だったら、『こんなことして、なんになるんですか』ってことはないだろう」
 「だって」
 「だってもクソもない。意味なんかない。あるものか」
 「ないんですか」
 「目の前にビデオデッキとヨーグルトがあれば、とりあえずヨーグルトをビデオデッキに流し込む。そうしたものだ」
 「はあ」

 パンダは目を白黒させた。それにあわせて体の模様も白と黒が入れ代わる。

 「おまえはネオンサインか」
 「え?」
 「チカチカしてまぶしいんだよ」
 「おどろくとこうなっちゃうんです。どうしようもないんです」
 「それでいい」
 「は?」
 「どうしようもない。いい言葉だ。どうしようもないんだ、生きるってことは」

 そのころうっかり村のとなりのそこつ村では、族長のゆうが頭を抱えていた。

 夜がくるたびに、若い男がひとりづつどこかへ消えていくのである。村にはもう、年取った男、年取った女、若い女、中年の女、赤ん坊が残るばかりである。

 ゆうは隣に控えていた若い愛人のレモンに言ったーーー

 「村が消滅するのも時間の問題だ」
 「バカらしか、ち!」

 レモンは言い放ち、ゆうへにやりとして見せた。
 「バカらしか、ち!」

 いつの間にかそばに控えていた老婆もまったく同じことを言った。それから二、三度、ひとりでうなずいていた。

 ゆうの嘆きはおさまらなかったが、これ以上愚痴をこぼすのはやめた。ふたりの「バカらしか、ち!」のせいだろうか。

 「バカらしか、ち!」は、いうまでもなく九州弁である。九州弁の中でも、筑前地方独特のことばだ。標準語への翻訳は、まことに困難である。困難というよりも、ほとんど不可能に近いだろう。もちろん問題は、最後の「ち!」である。この「ち!」にはまず強調の意味があった。しかしそれは、最も単純な意味だ。次にこの「ち!」には、無人称多数的な意味があった。すなわち、自明の理をあらわす。いまさらいうも愚か、というわけだった。またこの「ち!」には、自己を道化に仕立てるニュアンスと、同時に相手に対する軽蔑のニュアンスがあった。ゆうに送ったレモンの「にやり」は、このニュアンスを顔であらわしたものであろう。

 「バカらしいことがあるものか」

 ゆうは族長の威厳をたもつのに精一杯だった。老婆がすかさず口をはさむ。

 「お前は、子供のときからハーレムにあこがれよったとやけん、よかやないか」

 いわれてみれば確かにそうだ。ハーレム。男なら誰でも憧れる。だが、なんだってどいつもこいつも九州弁なんだ。ここはガルシア・マルケスの小説で名高い南米マコンドの町ではなかったか。軽いめまいをおぼえて、あたりを見回すと、住み慣れたマコンドのようでいて、どこかがちがう。どこがどうちがうのか説明しろといわれると困るが、現実世界のネジがゆるんで虚構の世界が紛れ込んだような感じだ。そもそもレモンはオーストラリア出身ではなかったか。

 「オーストラリアで産湯をつかい、姓はモンロー名はレモン、人呼んでフーテンのレモンと発します」

 レモンの口癖だ。日本で絶滅して久しい香具師の口上を、異国の女のレモンが唱えるのを聞いて心を奪われたのが二年前の秋だ。立て板に水というよりは横板に餅だったが、そのぎこちなさがかえって愛敬だった。

 もちもちとした肌にくろぐろとした瞳、そしてたけだけしくその丸顔をふちどるあわい麦わら色の髪は、アボリジニとヨーロッパ人の血が絶妙にブレンドされた結果である。そして伝法な口の利き方。横板に餅とはいえ、小股の切れあがったという形容がぴったりの女である。

 ゆうがレモンに眼を奪われているところへ、何やら呼ぶ声がする。

 「ちょいと、だれもいないのかい?」

 眼が細く、げたのような顔をした男が天蓋を覗きこんだ。四角い木のトランクをさげ、上着にはそでをとおさず、腹のまわりに奇妙な帯、いや布の筒を巻いている。眉根には大きなほくろだ。

 「おにいちゃん」

 レモンが叫んだ。

 「おお、レモン、久しぶりだな。ちょっとそこまで寄ったもんだからよ、どうしてるかと思ってな」男の足元で犬が鼻を鳴らす。

 丸いくりくりとした目だ。毛並みは、人間に譬えるならセミロングとでも言おうか。白いからといってこれは人間の白髪には譬えられぬ。この白さが尖った耳と小柄な体をいっそう愛くるしく見せている。買う気もなければその金もないのに、ペットショップの店頭で娘にせがまれれば、ついつい目を奪われて夢心地、買ってしまおうかと街角金融に足を運びたくなる、そういう風情だ。

 「どうしたんだよ、その犬?」レモンは久方ぶりの兄の近況よりも、十年一日変わるはずもないその風体には似つかわしからざる、かわいい犬が気になる様子。

 「いやなに、ここへ来る途中寄った帝釈天の庭先でよ、腹ァすかしてクンクンないてやがるからよ、持ってた団子を食べさせてやったら、ついてきやがってよ」

 「お兄ちゃん」

 レモンが目をしばたたかせる。

 「なんか、言葉づかい変だよ」
 「そりゃおめェ、あたぼうよ」

 ひさしぶりの再会なのに兄はけろっとした顔だ。かがんで犬の顎をしきりに撫でている。

 「ご覧よ、この顔を。このつぶらな瞳を。腹ァすかせてるのは、なにも人間だけじゃないんだ。犬だって、おまえ、大変なんだよ。そりゃあ物は言わないよ、犬だからな、でもなァさくら、こいつも俺も同じフーテン、目と目が合えばわかるのよ」

 「どうでもいいけど、わたしレモンよ。どこの女よ、さくらって」
 「おまえもあいかわらずだなあ、細かいこと気にして」
 「ちっとも細かくないでしょ。お兄ちゃん、いい加減に将来のこと考えてよ。額に汗して、油まみれになって働く人と、いいカッコしてぶらぶらしてる人と、どっちが偉いと思うの」
 「そりゃあおまえ」
 「地道に働くってことは尊いことなのよ」
 「みなまで言うんじゃねえよ。わかってる、ああわかってるよ、さくら。よし、カタギになる。決めた。なあ、さくら、どうだい」
 「ほんと?うれしい。で、どうするの」
 「さて、そこが問題よ」
 「お寿司屋さんなんてどう」
 「そんなものが地道な暮らしとは、俺は思えねえな」
 「じゃあ、天ぷら屋さん」
 「俺は天ぷらは嫌いだ」
 「もう。あ、それじゃ社長に頼んでみたら?」
 「社長って、あのタコかい?そんな、おまえ、今さら恥ずかくって、どうも、なあ」
 「えり好みしてられる身分じゃないでしょ。それはそうと、わたしレモンなのに、なんでさくらになっちゃったんだろう」
 「こいつのせいだよ」

 兄が犬の頭をポンと叩く。犬は尻尾をふって「ニャー」と鳴く。

 「どうだい。器用なもんだろ」
 「気味が悪いわ」

 とそこへ、勝手知ったる他人の家へとばかりに、タコ社長がふらりと顔を出す。

 「ちょうどよかった。ねえ社長さん、お兄ちゃんがね、真人間になるって」
 「え?寅さんが?真人間?こりゃ驚いた。雪でも降るんじゃねえか」
 「おい」

 兄は黙っていられない。

 「このタコ。するってぇとなにか、俺がカタギになっちゃいけないっていう法でもあるのか」
 「いや、ごめんごめん、悪気はないんだ。あんまりびっくりしちゃってさ」
 「どうだ、おい」

 兄は犬だけが話し相手だ。

 「額に汗してよ、油まみれになって働いているよ。地道な暮らしをしてよ。仕事ってのはね、何しても楽なものはないんだよ」
 「なに言ってるのよお兄ちゃん、偉そうに」
 「そうだよ。俺たち中小企業の苦労が、寅さんにわかってたまるか」
 「なにを!いや、ちょっと待て。いつから俺が『寅さん』になった?」
 「いつからって、ここにさくらちゃんがいて、俺がいて、おまえが寅さんじゃなかったら、いったい誰だってンだい」

 兄はどうもわけがわからない。

 「お兄ちゃん、どうしたのよ。何かあったの」
 「どうしたもこうしたも、おまえ、レモンじゃなかったか」

 「ははァ。とうとう、ここにきたね」

 タコ社長が人差指で頭をトントンとたたく。

 「かわいそうに。ナンマンダブナンマンダブ」
 「まさか」

 兄は眼を白黒させる。

 「夢じゃねえだろうな」
 「夢かもしれないよ、寅さん」

 タコ社長はへらへらと笑っている。

 「夢かうつつか幻か」
 「俺は」

 目をしばたたかせて、兄が言う。

 「あたらしい文学をさがしに旅に出ていたはずだ。『千年の孤独』だ。あの山越えて谷越えて、筆一本の旅がらす、どこかで調子が狂っちまった」

 足元で犬がニヤニヤ笑っている。

 「本当におにいちゃんときたら、お人好しなんだから」妹は懐かしい兄の相も変わらぬ性質を確認するためというよりは、現実のものにはなって欲しくないある予感から、注意を逸らすためでもあるかのように言う。

 「よせやい。そんなんじゃねえや。袖摺りあうも多少の縁って言ってな、そりゃあ困っているヤツがいたら助けてあげたいじゃないか」

 そこで間があいた。口を挟まなかったレモンの負けだ。

 「でだ、レモンよ、ついてはひとつ、頼みがあって来たんだがな」

 「頼みって……?」怪訝そうな表情を作って、レモンは失地から立ち直ろうとする。しかし、遅い。

 「このワン公をお前んとこでしばらく面倒見てやってくんねえかな」

 悪い予感は常に的中する。ましてや相手は、その性格を知り尽くした兄だった。当たらないわけがない。

 賢明なる読者諸氏は既にお気づきであろう。物語はいつの間にか二つに分岐している。第五ページの続きとして書かれた第六ページの後に、同じく第五ページの続きであるはずの第七ページが来ている。そして、第六ページと第七ページは互いに独立している。

 新しい文学を求める旅は、第六ページにおいて変節しようとしている。ところが第七ページでは、そんな第六ページのやり取りをまったく無視したかのように、宝探しの物語の基本要素である依頼(犬の面倒を見るよう)の行為が語られようとしている。

 新しい文学を求めていたのだった。しかし、こうした物語の分岐、可能世界の分岐という手法が、新しいものといえるのだろうか? そして、その分岐を正当化するために、こうして作者である私が介入し、読者に語りかけるという手法が、本当に新しいものなのか?

 破綻している。小説が破綻に向かっている。取り敢えずはこの原因を探らねばならないだろう。

 原因ははっきりしている。それは

                犬

                  以外の何ものでもない。

 この犬は何者なのか?

 まったくいまいましい。作者であるわたしが登場させたおぼえのない犬が、勝手に小説のなかをうろついている。しかもニヤニヤ笑いながらだ。このニヤニヤ笑いには、まったくぞっとする。「依頼」と「代行」が小説のかなめなのに、お前のせいで立ち往生だ。名前くらい名乗ったらどうだ。

 しかしいまさら愚痴をこぼしてみてもはじまる話ではない。こんな名前も無いような犬など、誰がかまってられるものか、というわけにもゆかない。自動車の波を手足でかき分けることができぬ以上、誰もが名前も無い犬と出くわさずには生きてゆくことができないわけだ。もちろんこれはべつだんわたしの新発見ではない。常識である。それに、何もかも一緒くたに論じるのは、やはり誤りというものだろう。名前のない犬が街じゅうに氾濫しているとはいえ、現に作者であるわたしが見ている犬には、何か名前がつけられているはずだからである。その犬を見てわたしは、たまたま犬の名前を忘れているに過ぎない。しかしわたしはその犬を見ながら、とつぜん早起き鳥を思い出した。そこで、この犬をいま早起き犬と呼ぶことに決めても大して罪にはならないだろう。

 「ぐー」

 早起き犬と呼ぶことに決めたとたんに、これだ。地べたに腹をぺったりつけて眠りこけている。左右に広げた脚のだらしなさはどうだ。車に轢かれたわけじゃあるまいし。ちょっと待て。何かがおかしい。六本あるじゃないか。六本脚の犬なんて聞いたことがない。しかし目の前にいるのはたしかに犬だ。しかも早起き犬である。こんなものが目の前にいたのでは小説は一向に進まないではないか。まったくいまいましい犬だ。

 「よー」

 なんだ、今の声は。寝息か寝言か。「よー」とは何事だ。犬のくせに。あれは何のエッセイだったか、「犬が好きである。自分で犬の仔が産めないのが残念なくらい好きである」と松浦理英子は言っていたが、料簡が知れない。こいつを見てみろ。

 「あら」
 「おはよう!」
 「お父さん、おはよう!」

 振り返ると、妻と長男と長女がダイニングキッチンで食事をしていた。ダイニングキッチン?早起き犬はどこだろう。地べたに寝そべっていた早起き犬。

 「あら」
 「おはよう!」
 「お父さん、おはよう!」

 妻と小学校五年生の長男と幼稚園の長女が、口々にいった。

 「おはようございます」

 とわたしは答えた。朝のテレビ番組の画面の上の方に時間が出ている。七時三十六分だった。テレビは食器戸棚の上に載っている。わたしはその真正面の椅子に腰をおろした。わたしの定位置である。食事中に子供たちがテレビに熱中しないためだ。

 「いま学校は何時に始まっているのかな?」
 「八時半だよ」
 「幼稚園は?」
 「九時!」

 子供たちと一緒に朝食のテーブルにつくのは、まったく久しぶりだった。しかし、一緒に食事はできなかった。わたしの食べるものは、なかったからだ。妻と子供たちは、朝はパン食である。わたしはパンはほとんど食べない。

 「お父さん、こんなに朝早くどっか行くところあるの?」

 と長女がたずねた。

 「ああ」
 「どこ?」
 「いいところ、だ」
 「遊園地?」
 「ばかだなあ。お父さんが遊園地なんか行くわけないじゃないか」

 と長男がいった。

 「で、何時ですか、お出かけは?」
 「そうだな、九時にするか」

 そういってからわたしは、新聞を持ってトイレに入った。そうやって朝刊を読むのも久しぶりだ。一ヶ月ぶり?いやもっとかも知れない。

 わたしは白い馬蹄形の便器に腰をおろして、ぱらぱらと朝刊をめくった。大した事件はなさそうだ。

 新聞をじっくりと読んでいると、トイレの窓から隣の奥さんが

 「おはようございますぅ~。これハワイ旅行のお土産ですぅ~。」とマカダミアナッツを30箱も投げ込んでくれた。

 彼女の行動はいつも唐突すぎる。そして斬新だ!

 びっくりした拍子に出かかっていたものも引っ込んでしまった。

 しかしせっかくなのでお返しにトイレットペーパーを8ロール投げて返した。ひっこんでしまったものはしょうがないので、手でむりやりひっぱり出して一応満足してトイレを出た。

 食べ残してあった朝食を何気につまんで口に放り込んだ。

 「あっしまったっっっ!」…気がつくのが遅かった。

 トイレを出てから手を洗ってなかったのだ。

 冷静になって考えよう。汚いor汚くないの判断は自分自身の気持ち次第なのだ。

 そうこう悩んでいる間に家を出る時間がやってきた。いくら会社がフレックスタイムを導入しているとはいえ、片道4時間の道のりなので今から出ないと間に合わないのだ。

 スーツの襟を直しながら玄関のドアを半分ほど開けると鈍い音がして何かにぶつかった。

 犬だ。

 小説のなかをうろついている犬の再登場だ。

 さっきの登場ではニヤニヤ笑いだったが、

 今度はスッキリさわやか120%の営業スマイルだ。
どうやら最近生まれた仔犬たちのご飯をねだりに来たようだ。
世渡り上手なその態度になにやら感動すら覚えるのだった。
仔犬の餌を妻にお願いし、50匹ほどいる彼(彼女?)の子供の姿を見つつ、出社の準備に取り掛かる。まずは点検しないといけない。整備を忘れるとのちのち面倒なことになってしまう。

 「帽子」「スケジュール帳」「めがね」「携帯電話」「タバコ」
よし、ここまでは順調だ。
「ピストル型のライター」。お気に入りだ。
「双眼鏡」。仕事には欠かせない。
「木彫りの熊」。これがないでは仕事にならず、面倒なことになる。
「弁当」。妻のお手製だ。いつも通りミートボールの納豆あえがはいっている。

 おっと忘れてしまうところだった。「焼肉のたれ(中辛)」。

 読者諸君は何の仕事に行くのだろうと思ったであろう。そうなのだ。わたしはこれからどこへむかおうというのだろう?

 ここで重要視されるのは「中辛」。「甘口」では甘過ぎ「辛口」では辛過ぎだ。

 もちろん「焼肉のたれ」も大ヒントだ。「レトルトカレ~」では台無しだ。

 そして「木彫りの熊」は必ず鮭をくわえていなければならない。

 …おっと、いつまでも薀蓄をたれている場合ではない。いつもより数分遅れで家を出る。さて、今日はどうやって会社に行こう。最近はプライベートジェットのヒッチハイクばかりだ。あれにも飽きた。

 しかし徒歩10分の会社にジェット機のヒッチハイクは適しているのだろうか?

 短調になりがちな通勤をより快適にするための選択肢のひとつとしては充分有意義ではあったのには違いない。更に楽しい交通手段を考えなければならないな~。

 と、主人はここにおいてあらゆる不平を挙げて滔々と吾輩前に述べ立てた。吾輩はだまって聞いていたが、ようやく口を開いて、かように主人に説き出した。

 「ジェット機だヒッチハイクだと、上をいえばきりがないんじゃないか。吾輩はそう云う点になると西洋人より昔しの日本人の方がよほどえらいと思う。西洋人のやり方は積極的積極的と云って近頃大分流行るが、あれは大なる欠点を持っているよ。第一積極的と云ったって際限がない話しだ。いつまで積極的にやり通したって、満足と云う域とか完全と云う境にいけるものじゃない。川が生意気だって橋をかける、山が気に喰わんと云って隧道を堀る。交通が面倒だと云って鉄道を布く。鉄道じゃ遅いと云ってジェット機を飛ばす。ジェット機じゃ遅刻すると云つてスペースシャトルに乗る。それで永久満足が出来るものじゃない。どこまで行っても際限のない話しさ。西洋人の遣り口はみんなこれさ。ナポレオンでも、アレキサンダーでも勝って満足したものは一人もないんだよ。人が気に喰わん、喧嘩をする、先方が閉口しない、法庭へ訴える、法庭で勝つ、それで落着と思うのは間違さ。心の落着は死ぬまで焦ったって片付く事があるものか」
「でも、それじゃつまんない」
「まあ仕舞まで聞きたまえ。山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すと云う考を起す代りに隣国へ行かんでも困らないと云う工夫をする。山を越さなくとも満足だと云う心持ちを養成するのだ。それだから君見給え。禅家でも儒家でもきっと根本的にこの問題をつらまえる。いくら自分がえらくても世の中はとうてい意のごとくなるものではない、落日を回らす事も、加茂川を逆に流す事も出来ない。ただ出来るものは自分の心だけだからね」
「これだから犬はバカで困る。楽しい交通機関を探してるって言ったろ?速度は関係ないんだよ」
「人間のくせに道理を知らん。吾輩なんか、むずかしい事は分らないが、とにかく西洋人風の享楽主義ばかりがいいと思うのは少々誤まっているようだ。現に君がいくら享楽主義に流れたって、命はどうする事も出来ないじゃないか。どうだい分ったかい」

 わかんねーよと言う間もなく、あたりは轟音と砂埃に包まれた。犬は専用ジェット機で西へ飛び去った。言ってることとやってることが矛盾してるじゃないか。犬のやつめ。

 腕のあたりがなんだか生暖かい。振り返ると、なんとも形容しがたい女が、ふくらんだりちぢんだりしながら、えへらえへら笑っている。

 「お前の生れはどこ?」
 「東京」
 「東京はどこ?」
 「浅草」
 「浅草はどこ?」
 「しつッこいわね、千束町よ」
 「あ、あの溝溜のような池があるところだろう?」
 「おあいにくさま、あんな池はとっくにうまってしまいましたよ」
 「じゃア、うまった跡にぐらつく安借家が出来た、その二軒目だろう?」
 「しどいわ、あなたは」と、ぶつ真似をして、「はい、これでもうちへ帰ったら、お嬢さんで通せますよ」

 「お嬢さん芸者万歳」と、僕は猪口をあげる真似をした。

 三味を弾かせると、ぺこんぺこんとごまかし弾きをするばかり。面白くもないが、僕は酔ったまぎれに歌いもした。

 「もう、よせよせ」僕は三味線を取りあげて、脇に投げやり、「おれが手のすじを見てやろう」と、右の手を出させたが、指が太く短くッて実に無格好であった。

 「お前は全体いくつだ?」
 「二十五」
 「うそだ、少くとも五十七だろう?」
 「じゃア、そうしておいて!」
 「お父さんはあるの?」
 「あります」
 「何をしている?」
 「鼓笛隊」
 「おッ母さんは?」
 「風来坊」
 「兄さんは?」
 「アルカイダ幹部」
 「姉さんは?」
 「ないの」
 「妹は?」
 「食べちゃった」
 「どこにつとめているの?」
 「宝塚」
 「将来どうするの?」
 「社長の奥さん」
 「なアに、妾だろう」
 「妾なんか、つまりませんわ」

 「じゃア、おれの奥さんにしてやろうか?」と、からだを引ッ張ると、「はい、よろしく」と、笑いながら寄って来たが、ぬめぬめした皮膚のあちこちからシューッと蒸気が上がる。じつにどうも気持ちが悪い。

 翌朝、食事をすましてから、僕は机に向ってゆうべの女のことを考えた。ぬめぬめした体をふくらませてはちぢませ、シューシューと湯気を立てる様子を見て、化け物だという嫌気がしたが、しかし自分の自由になるものは、――犬猫を飼ってもそうだろうが――それが人間であれば、どんな化け物でも、一層可愛くなるのが人情だ。当分は可愛がってやろう、皇居に連れていけば面白かろうなどと、それからそれへ空想をめぐらしていた。

 階下で甘ったれた声がして、だんだん二階へあがって来た。犬だ。書物を開こうとしたところだが、まんざら厭な気もしなかった。

 「先生、おはよう」
 「お前かい?」
 「来たら、いけないの?」ぴったり、僕のそばにからだを押しつけて坐った。それっきりで、目が物を言っていた。僕はその頸をいだいて口づけをしてやろうとしたら、わざと顔をそむけて、
 「厭な人、ね」
 「厭なら来ないがいいさ」
 「それでも、来たの――あたし、あなたのような人が好きよ。商売人?」
 「ひとつ聞いてもいいか」
 「なによ」
 「お前、犬だろう」
 「そうよ」
 「言葉がわかるのか」
 「ずいぶん間抜けね、言葉がわかるのか、なんて。わかるからこうして話をしてるんじゃない」
 「もっともだ。雌なのか」
 「いいじゃない、どっちだって。で、どんな商売?」
 「落書き商売」
 「そんな商売があるもんですか」
 「まア、ない、ね」

 「人を馬鹿にしてるのね」と、僕の肩をたたいた。

 僕を商売人と見たので、また厭気がしたが、他日わが国を風靡する大落書家だなどといばったところで、犬に分ろうはずもないから、茶化すつもりでわざと顔をしかめ、

 「いてて!」
 「うそうそ、そんなことで痛いものですか」と、ふき出した。
 「全体どうしてお前はこんなところにぐずついてるんだ」
 「火星へ帰りたいの」
 「帰りたきゃ早く帰ったらいいじゃないか」
 「軍神マルスにそう言ってやったわ、迎えに来なきゃ死んじまうって」
 「おそろしいこった。しかしそんなことで、びくつくマルスじゃああるまい」
 「マルスさんはそりゃあそりゃあ可愛がるのよ」
 「独りでうぬぼれてやがる。誰がお前のような者を可愛がるもんか。一体お前は何が出来るのだ」
 「何でも出来るわ」
 「第一、三味線は下手だし、歌もまずいし、ここから聴いていても、ただワンワン騒いでるばかりだ」
 「ほんとうは、三味線はきらい、オペラが好きだったの」

 「じゃあ、やって見るがいい」とは言ったものの、ふと顔を見合わせたら、抱きついてやりたいような気がしたのを、しつっこいと思わせないため、まぎらしに仰向けに倒れ、両手をうしろに組んだまま、その上にあたまをのせ、犬が机の上でいたずらをしている横顔を見ると、鼻がなく、目も口もない。背が高いので、役者にしたら、舞台づらがよく利くだろうと思いついた。ちょっと断わっておくが、僕はある脚本――それによって僕の進退を決する――を書くため、材料の整理をしているので、少くとも女優ひとりぐらいは、これを演ずる段になれば、必要だと思っていた時だ。

 「お前がオペラを好きなら、歌手になったらどうだ?」
 「あたい、賛成だわ。火星にいた時、朋輩と一緒に『アイーダ』をやったの」
 「さぞこの尻が大きかっただろう、ね」うしろからぶつと、
 「よして頂戴」と、僕の手に噛みついた
 「お前が役者になる気なら、僕が十分周旋してやる」
 「どこ?ウィーン?メトロポリタン?スカラ座?」
 「どこでもいいやね、それは僕の胸にあるんだ」
 「あたい、役者になれば、妹もなりたがるにきまってる。それに、あたいの子――」
 「え、お前、子供があるのか?」
 「もとの旦那に出来た娘なの」
 「いくつ?」
 「百二」
 「まさか、子供の数じゃあるまいな」
 「そうじゃないわ。金星の人で、手が切れてからも、一年に一度ぐらいは出て来て、子供の食い扶持ぐらいはよこすわ。それが面白い子よ。五つ六つの時から自爆テロが上手なんで、料理屋や待合から借りに来るの。『はい、今晩は』って、澄ましてお客さんの座敷へはいって来て、自爆がすむと、『御祝儀は』って催促するの。小癪な子よ。自爆は好きだから、あたいよく仕込んでやるわ」

 犬乗り気になって、いよいよそうと決まれば、知り合いの待合や芸者屋に披露して引き幕を贈ってもらわなければならないとか、披露にまわる着物にこれこれかかるとか、寝ころびながらいろいろの注文をならべていたが、僕は、その時になれば、どうとも工面してやるがと返事をして、まず二、三日考えさせることにした。

 それからというもの、僕は毎晩のように犬の夢を見た。犬の決心がまず本統らしく見えると、すぐまた火星の前夫の意見を聴きにやらせた。前夫からは近々当地へ来るから、その時よく相談するという返事が来たと、犬が話した。僕一個では、また、ある友人の劇場に関係があるのに手紙を出し、こうこういう犬がいて、こうこうだと、その欠点と長所とを誇張しないつもりで一考を求め、遊びがてら見に来てくれろと言っておいたら、ついでがあったからと言って出て来てくれた。犬を一夕友人に紹介したが、もう、その時は僕が深入りし過ぎていて、女優問題を相談するよりも、二人ののろけを見せたように友人に見えたのだろう。僕よりもずッと年若い友人は、来る時にも「たこ焼き村先生はいますか」というような調子でやって来て、帰った時にはその晩の勘定六万ユーロなにがしを払ってあったので、気の毒に思って、僕はすぐその宿を訪うと、まだ帰らないということであった。どこかでまたウィスキーのタバスコ割りを飲んでいるのだろうと思ったから、その翌朝を待って再び訪問すると、もう出発していなかった。僕は何だか興ざめた気がした。それから、一週間、二週間を経ても、友人からは何の音沙汰もなかった。しかし、僕は、どんな難局に立っても、この犬を女優に仕立てあげようという熱心が出ていた。

 「なんなのよ、いったい」と、見知らぬ女がギターをもってはいって来た。

「どなたですか」
「いい加減にしてよ」

 女はかっと顔を赤くして、飛び上がった。そのまま月面宙返りで一階に着地して、僕のことを悪し様に呪い、ルンバのステップを踏んで泣き喚いた。

 「おい、おい!」と僕は命令するような強い声を出した。女は行ってしまったが、まさかそのまま来ないことはあるまいと思ったから、独りで円陣を組みながら待っていた。はたしてギターを持ってすぐ再びやって来た。女がつんとしているので、今度は僕から物を言いたくなった。

 「名前は?」
「とぼけるな、このすっとこどっこい」
「分らないから聞いているんだ」
「いつまで待たせる気?はやくつけてよ、名前」

 それで分ったが、この女、『千年の孤独』の登場人物で、お呼びがかかるのを今か今かと待っていたのであった。

「登場人物はね、作者を選べないのよ」
「僕は作者じゃない。お門違いだ」
「作者に限って、そういうこと言うのよ」
「いいから帰ってくれ」
「言われなくてもニュージャージーに帰ります」
「帰って、どうするんだ?」
「お嫁に行きますとも」
「誰がきさまのような者を貰ってくれよう?」
「憚りながら、これでも家をこさえて待っていてくれるものがあります」
「ニュージャージーならあり得るな」
「どうせ、アメリカの埼玉って、思ってるんでしょう」
「名前もないのに、どうやって嫁になる」
「だから早くつけろって言ってるだろうが、このスカポンタン」

 僕は、恨みもつらみもなかったのだから、こうやって話し相手になっているのは悪くもなかった。

 「どうなのよ、名前。つけてくれるの、くれないの」
 「まあね」
 「気のない返事だこと。しょうがないわね。生い立ち話してあげる」

 別に聞きたくもないが、ほかにすることもない。つきあってやることにした。

 「それは、ひどく寒い真夏の夜のことでした。あたりは白夜で、こんこんと死の灰が降っていました。寒い夜の中、みすぼらしい一人の少女が歩いていました。シルクハットもかぶらず、はだしでしたが、どこへ行くというわけでもありません。行くあてがないのです。ほんとうは家を出るときに一足の下駄をはいていました。でも、鼻緒がなく台もなかったので、役に立ちませんでした。実はお母さんのものだったので無理もありません。道路をわたるときに、二台の戦車がとんでもない速さで走ってきたのです。少女は戦車をよけようとして、下駄をなくしてしまいました。下駄の片方は見つかりませんでした。もう片方はライオンの飼育係がすばやくひろって、「子供ができたときに、鞭の代わりになる。」と言って、持ちさってしまいました。だから少女はその小さなあんよに何もはかないままでした。あんよは寒さのために赤くはれて、青じんでいます。少女の古びたエプロンの中にはたくさんのダイナマイトが入っています。手の中にもプラスチック爆弾を一箱持っていました。一日中売り歩いても、買ってくれる人も、一枚の株券すらくれる人もいませんでした。少女はおなかがへりました。寒さにぶるぶるふるえながらゆっくり歩いていました。それはみすぼらしいと言うよりも、トホホでした。少女の肩でカールしている長い紫色のかみの毛に、死の灰のかけらがぴゅうぴゅうと降りかかっていました。でも、少女はそんなことに気付いていませんでした。

 どの家のまども明かりがあかあかとついていて、おなかがグゥとなりそうなクジラの丸焼きのにおいがします。そっか、今日は海の日なんだ、と少女は思いました。一つの家がとなりの家よりも通りに出ていて、影になっている場所がありました。地べたに少女はぐったりとあぐらをかいて、身をちぢめて逆立ちしました。小さなあんよをハチドリのように動かしましたが、寒さをしのぐことはできません。少女には、家に帰る勇気はありませんでした。なぜなら、ダイナマイトが一箱も売れていないので、一枚の株券さえ家に持ち帰ることができないのですから。するとお父さんはぜったい殺すにちがいありません。ここも家も寒いのには変わりないのです、あそこは屋根があるだけ。その屋根だって、大きな穴があいていて、すきま風をオブラートでふさいであるだけ。小さな少女の手は今にもこごえそうでした。そうです!ダイナマイトが役に立つかもしれません。ダイナマイトを箱から取り出して、カベでこすれば手があたたまるかもしれません。少女は一本ダイナマイトを取り出して――「シュッ!」と、こすると、導火線にちりちり火花が走りだして爆発しました!あたたかくて、明るくて、巨大なロウソクみたいに少女の手の中で炸裂するのです。本当にふしぎな爆発でした。まるで、小指が吹っ飛ばされるみたいでした、いえ、本当に吹っ飛ばされたのです。目の前にはもげた小指があるのです。すぐ近くにあるのです。少女はもっと吹っ飛ばそうと、小指へ手をのばしました。と、そのとき! 小指はパッと消えて、手の中に残ったのはダイナマイトのもえかすだけでした。―――いいでしょ?ダイナマイト。何だか落ちつくの」
 「嘘だろう」
 「そう。嘘」
 「よかった」
 「あーあ、ダイナマイトでふっ飛ばしたいなあ」
 「本気か」
 「本気になりそうだわ。ある?ダイナマイト」
 「そりゃあってよ、どこだって貸すわ、家へいらっしゃいよ」

 誰かと思って振り返ると、筒袖絆纏を着た六十ばかりの見知らぬ女が突っ立っている。

 「二三日いい?」
 「永くたっていいわ、私永いほど結構! ね? 本当に家へいらっしゃいよ、淋しくってまいるんだから」
 「いやあね、まだ決りゃしないことよ何ぼ何でも――」

 犬は私に小さい声で、

 「プロフェッショナル・バアチャン」

 と囁いた。プロフェッョナル・バアチャン。犬にしては気が利いている。私が感心していると、犬はクンクン鼻を鳴らして媚を売ってきた。

 「あなた、行ってきて下さらない?」
 「なぜだい」
 「なぜでも」
 「なぜでもか。なぜでもなら、しかたがないな」

 私が、すっかり荷物を持って鎌倉へ立ったのは、雪降った次の日であった。春らしい柔かい雪が細い裏通りを埋め、竹の枝からハチミツが流れる。

 始めての経験であるダイナマイトのお遣いに興味を覚えつつ、私はプロフェッショナル・バアチャンの家に向かった。玄関にシロクマの死体が転がっていた。非常に新鮮な感じであった。夜気はこまやかに森(しん)として、遠くごく遠く波の音もする。夜、波の音は何故あのように闇にこもるように響くのだろう。耳を澄ましていると、

 「いらっしゃい」

 プロフェッョナル・バアチャンが扉をあけた。

 「ダイナマイトしかありませんですがお仕度が出来ました、持ってきてようございますか」

 私はは気をとられていたので、いきなりぼんやりした。

 「え?」
 「バズーカに致しましょうか」
 「ああ。いえ、ダイナマイトを」

 プロフェッョナル・バアチャンは引かえして何か持って来た。私は相当空腹であった。

 「どうぞ」
 「ありがとう」

 プロフェッョナル・バアチャンが引っ込んでからよく見ると、朱塗りの丸盆の上に椀と飯茶碗と缶詰のコンビーフとダイナマイトが載っていた。

 私は盆を取り、軒先に腰を下ろした。近所は夕飯が始まったらしい。箸の音が聞えた。

 私はコンビーフの缶を切りかけた、缶がかたく容易に開かない、木箱の上にのせたりレンガの上に下したり、力を入れ己れの食いものの為に骨を折っているうちに私は悲しく自分が哀れで涙が出そうになって来た。家庭を失った人間の心の寂寥があたりの夜から迫って来た。私は手を止め、今にも海に向かってダッシュしそうになった。が、私は、自分を制して缶を見つめた。

 「ダイナマイトがあるじゃないか」

 足元から声がする。シロクマだった。

 「死んでたんじゃないのか」
 「そうだよ。でも、あんまり退屈で」
 「死んでるんなら、ちゃんと死んでてくれなきゃ困る」
 「はいはい」

 火種だ。火種が要る。どうしたものか。と、プロフェッョナル・バアチャンが、

 「火、いかがですか」

 と声をかけてよこした。火炎放射器を握っている。私は導火線を差し出した。

 「ゴオゥ…」プロフェッショナル・バアチャンが火を点ける。

 ぱっ、ぱっ、ぱっ、と目にも留まらぬ速さで導火線に火が走り、私は慌ててそれを手放した。(了)

2004年9月7日